『罔川集』は王維と裴迪が川(川の名に基づく。長安西南の終南山の麓、藍田にある。)の別荘で唱和した絶句集。
 それぞれ二十首ずつ同一詩題で詠んでいる。五言絶句ばかりであるが、王維は主として仄韻を採用し、裴迪は平韻を採用しているところがおもしろい。








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   王維 罔川集 20首


李白の詩
■ 李白の詩
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 ・情愛の詩  ・酒友の詩
 ・夏日の詩  ・戦乱の詩
 ・懐古の詩  ・気概の詩
 ・旅情の詩  ・望郷の詩
 ・閑適の詩  ・老境の詩
 ・冬日の詩  ・人生の詩
◎ 李白杜甫を詠う


『罔川集』の序文に
余別業在川山谷,其遊止有孟城、華子岡、文杏館、斤竹嶺、鹿柴、木蘭柴、茱萸、宮槐陌、臨湖亭、南、欹湖、柳浪、欒家P、金屑泉、白石灘、北、竹里、辛夷塢、漆園、椒園等,與裴迪濶ノ,各賦絶句云爾。
 とあり、ここの中で述べられている地名に基づく順で詠まれている。


 王維が罔川荘を購入したのは開元17年(729)31歳の時です。22歳の時済州左遷されて約6年、長安から蜀州へ2年経過した後、母親の援助、実家の土地を売却したりして宗之問の別荘であったこの地を手に入れたのです。(宗之問は17年前712年自殺刑に処されている)子の頃王維が頼りにしていたのは張説、張九齢です。しかし、もう一方の旗頭、李林甫が力を出し始めたころでもあります。

 王維33歳(731)の時妻を亡くします。
 この間、母などと?川荘にいます。    
 王維34歳(734) 喪が開けたので張九齢を頼って再び官途につきます。
 開元22年(736) 中書令だった張九齢が罷免され李林甫が中書令につきます。王維も辞職しまし、2年間涼州に行きます。

開元27年(739)王維41歳の時長安に帰ります。復職し、地方出張させられた時、進士受験をあきらめ襄陽に帰っていた孟浩然と再開します。翌年、南方出張の帰り道の孟浩然を訪ねると既に亡くなっていました。それ以降、王維は、仕事は適当に、?川荘の経営を本格的に始めます。朝廷では、李林甫が絶対的権力を持っていますから、王維ら正当派は、送別とか、奉賛の場合以外隅に置かれました。

天宝元載(742) 李白は、道教の道士でした。玄宗皇帝の妹も熱心な道教信者で、李白の道士仲間で官職についたものがおり、その上、賀知章が皇帝に薦めたという絶対的なコネクションにより、特別職の宮廷詩人になります。実質1年半で、酒の上の無礼で長安を追放されます。天宝3載(744年)のことです。
 宦官の高力士を辱めたのが理由となっていますが、実際には裏で李林甫が行ったのです。

 その後、李林甫は朝廷を私物化していくのですが、王維は、座禅と?川荘に力を注ぎます。
 天宝9載(750)マザコンの王維52歳で母を亡くします。
 天宝11載(752)11月李林甫が病死します。それまで李林甫にうまく取り入っていた楊国息、右相となり、18年間の圧制も今度は楊貴妃一族に取って代わります。

 楊国忠が宰相になってから安史の乱が起こる天宝十四載(755)十一月までの三年間は、楊貴妃一族が全盛を謳歌した時代ですが、?川荘はその間に完成に近づいていきました。
 王維はそのころに門下省の給事中(正五品上)に昇進していますが、王維には妻も子もなく、母も亡くなり、弟妹もそれぞれ身を立てていたでしょうから、王維の収入はすべて?川荘の経営に注ぎこまれました。

 『罔川集』二十首は罔川荘の完成された姿を示していますので、詩集が成ったのも天宝の末年、つまり安史の乱の起こる直前であったと思われます。
トップページ> 時代と詩> 王維詩> 王維ものがたり 罔川集 20首
 王維詩

王維 罔川集 20首(車罔)


01

孟城幼(土幼):窪

もうじょうおう

新家孟城口、 
古木余衰柳。
来者復為誰、
空悲昔人有。

新たに家(いえ)す 孟城の口(ほとり)
古木は衰柳(すいりゅう)を余(あま)せり
来者(らいしゃ)は復(ま)た誰と為(な)す
空しく悲しむ昔人(せきじん)の有ゆう
解説 罔川荘の北の入口から南の奥のほうへ向かって並べられており、「孟城」は入り口付近にあった古城址です。「?」(おう)は窪地という意味で、そこに王維は新しい家を建てたのでしょう。しかし、王維が詠っているのは家のことではなく、その家もやがて誰かの手に移ってしまうであろうという無常感です。
02

華子岡


かしこう

飛鳥去不窮、  
連山復秋色。
上下華子岡、
惆悵情何極。

飛鳥(ひちょう)は去って窮(きわ)まらず
連山 復(ま)た秋色(しゅうしょく)
華子岡を上下すれば
惆悵(ちゅうちょう)して情(じょう)何んぞ極まらん
解説 「華子」は華子期という仙人の名前からきたそうですが、仙人と岡との関係はわかっていません。王維の詩は起句と結句に「不窮」と「何極」を照応させて、世に在る者の去った者への追慕の情を詠いあげています。華子岡を上り下りしながら思い出すのは、亡くなった母や妻のことでしょう。
03

文杏館


ぶんきょうかん

文杏裁為粱、
香茅結為宇。
不知棟裏雲、
去作人間雨。

文杏を裁(た)ちて粱(はり)と為(な)し
香茅(こうぼう)を結んで宇(いえ)と為す
知らず 棟裏(とうり)の雲
去って人間(じんかん)の雨と作(な)るを
解説 文杏館は華子岡を過ぎたところにあった建物のようです。「文杏」という材、「香茅」という草で家を作ったと詠うのは、文杏館を仙人の家と見立てているからでしょう。だから棟のあたりに雲が湧き、「人間」(人の世)の雨となるのかと、王維は俗世間を皮肉に見ています。
04

斤竹嶺 


 (きんちくれい)

檀欒映空曲、
青翠漾漣猗。
暗入商山路、
樵人不可知。

檀欒(だんらん) 空曲(くうきょく)に映じ、
青翠(せいすい) 漣猗(れんい)に漾(ただよ)う。
暗(あん)に商山(しょうざん)の路に入るを、
樵人(しょうじん)も知る可からず。
解説 斤竹嶺は文杏館の背後の山で、「斤竹」は竹の一種と見られています。詩中の「商山」は終南山の連山のひとつで、隠遁の山として有名です。王維はこのまま山路をたどっていくと、誰の目にもつかずに商山に辿りつけると、隠遁への志を述べています。
05

鹿柴


 (ろくさい)

空山不見人、
但聞人語響。
返景入深林、
復照青苔上。

空山(くうざん)   人を見ず、
但だ人語(じんご)の響くを聞くのみ。
返景(へんけい)  深林(しんりん)に入り、
復(ま)た青苔(せいたい)の上を照らす。
解説 「鹿柴」は鹿を飼ってある場所で、囲いの柵があります。しかし、詩中に鹿は出てこず、山中の静けさと、そのなかで夕陽が深い林の中にさし入って青い苔を照らし出している印象的な点景だけを描いています。
06

木蘭柴


 (もくらんさい)

秋山歛余照、
飛鳥逐前侶。
彩翠時分明、
夕嵐無処所。

秋山(しゅうざん)は余照(よしょう)を歛(おさ)め、
飛鳥(ひちょう)は前侶(ぜんりょ)を逐(お)う。
彩翠(さいすい)  時に分明(ぶんめい)にして、
夕嵐(せきらん)の処(お)る所無し。
解説 「木蘭」は木犀に似た香りのよい木で、柵で囲んで植えてあったようです。?川荘といっても家や庭だけでなく、植物園も点在している荘園のようなものであったとみられます。王維の詩は非常に繊細な表現で、「彩翠」というのは美しく色づいた秋の草木の中に緑の部分がときどき鮮やかに見えるというのでしょう。「嵐」は中国では靄(もや)のことで、日本語の「あらし」は中国では「風雨」と書きます。
07

茱萸畔(シ片)

 (しゅゆはん)

結実紅且緑、
復如花更開。
山中儻留客、
置此茱萸杯。

実を結びて 紅(くれない)且つ緑なり、
復(ま)た  花の更に開くが如し。
山中に儻(も)し客を留(とど)めば、
此の茱萸(しゅゆ)の杯を置かん。
解説 「茱萸畔」は茱萸の植わっている岸辺という意味です。茱萸(しゅゆ)は日本では「ぐみ」と読まれますが、日本のグミとは違うもので、葉は椿に似て厚みがあるそうです。陰暦三月に花が咲き、花の色は紅紫といいます。七、八月に実を結び、実は「はじかみ」に似ていて、はじめは微黄色をしていますが、九月九日の重陽節のころには赤色を呈しているそうです。王維はそうした実の色の変化を珍しいものとして詠っています。?川荘にも客があるらしく、王維は茱萸の木で作った杯が必要だと嬉しそうです。
08

宮塊陌    


 (きゅうかいはく)

仄径蔭宮槐、
幽陰多緑苔。
膺門但迎掃、
畏有山僧来。

仄径(そくけい)は宮槐(きゅうかい)の蔭にして、幽陰(ゆういん)に緑苔(りょくたい)多し
膺門(ようもん)は但だ迎掃(げいそう)す
山僧の来(きた)る有るを畏(おそ)る
解説 「陌」はあぜ道のことで、槐の木の生えている小径と解されます。山寺の僧がやって来るというので、「膺門」(門番)が一心に掃除をしており、王維はその姿をあたたかく描いています。掃いているのは門前の落ち葉でしょう。
 ?川荘のある地域のほぼ中央に「欹湖」(いこ)という湖があり、裴迪は宮槐陌が欹湖に通ずる道であることを述べています。王維が掃除に余念のない門番を描いている
09

臨湖亭


 (りんこてい)

軽舸迎上客、
悠悠湖上来。
当軒対尊酒、
四面芙蓉開。

軽舸(けいか)もて上客を迎え
悠悠(ゆうゆう)  湖上に来(きた)る
軒(けん)に当たって尊酒(そんしゅ)に対するに
四面(しめん)  芙蓉(ふよう)開く
解説 臨湖亭は欹湖の岸辺の水上に建っていました。王維は久し振りに「上客」を迎えて嬉しそうです。この詩では舟で臨湖亭に来たと言っているのか、舟上で客をもてなしているのかあいまいです。「軒」は日本では「のき」ですが、中国では「のき」の場合と「窓の手すり」の場合があります。ここでは「窓の手すり」でしょうが、「軽舸」に窓はないでしょうから、やはり臨湖亭で客をもてなしているのでしょう。池は蓮の花の花ざかりでした。
10

南 陀 


 (なんだ)

軽舟南陀去、
北陀E難即。
隔浦望人家、
遥遥不相識。

軽舟(けいしゅう)もて南陀に去(ゆ)く
北陀はE(びょう)として即(つ)き難し
浦(ほ)を隔てて人家を望めど
遥遥(ようよう)として相い識(し)らず
解説 「南?」は欹湖の南岸にある建物で、臨湖亭から小舟で湖を渡って行ったのでしょう。王維は湖が広くて奥深いことを描いています。
11

欹 湖


(いこ)

吹簫凌極浦、
日暮送夫君。
青山巻白雲、
湖上一回首。

簫(しょう)を吹いて極浦(きょくほ)を凌(しの)ぎ
日暮(にちぼ)に夫(か)の君を送る
青山(せいざん)に白雲(はくうん)巻けり
湖上  一たび首(こうべ)を回(めぐ)らせば
解説 ?川荘のほぼ中央部に位置するのが「欹湖」で、湖岸の南に南?、北に北?があったようです。北が?川の入口に近いので、長安から来た客は北から南へ奥まってゆくことになります。王維の詩は「上客」を見送る作品でしょう。舟には裴迪も同乗していたらしく、転結句において、王維は周囲の山の姿を描き、裴迪は吹いて来る風を描いて唱和の妙を発揮しています。
12

柳 浪 


 (りゅうろう)

行分接綺樹、
倒影入清猗。
不学御溝上、
春風傷別離。

行(こう)分かれて綺樹(きじゅ)接し
倒影して清猗(せいい)に入れり
学ばず  御溝(ぎょこう)の上(ほとり)
春風に  別離を傷(いた)むことを
解説 北?と臨湖亭は流れを隔てて向かい合う位置にあり、それぞれの岸辺に柳が生えていたようです。王維の詩の「行分」は、そのことを言っています。さざ波に柳が逆さに影を映しているというのは王維の好む表現であったようです。世を離れた山荘の柳だから、長安の城の堀端の柳のように左遷や転勤で別れを悲しむ必要もないと、山居の気楽な暮らしを肯定しています。
13

欒家瀬


 (らんからい)

颯颯秋雨中、
浅浅石溜瀉。
波跳自相濺、
白鷺驚復下。

颯颯(さつさつ)たる秋雨(しゅうう)の中(うち)
浅浅(せんせん)として石溜(せきりゅう)に瀉ぐ
波は跳(おど)って自(おのずか)ら相い濺(そそ)ぎ
白鷺(はくろ)は驚きて復(ま)た下(くだ)れり
解説 「欒家瀬」は早瀬の名で、臨湖亭の奥、「柳浪」の柳の近くにありました。王維の詩は水しぶきに驚いて白鷺が飛び立つが、また降りてくると観察の鋭さを示しています。役人生活への比喩を含んでいるのかも知れません。
14

金屑泉


(きんせつせん)

日飲金屑泉、
少当千余歳。
翠鳳翔文蛟、
羽節朝玉帝。

日々(ひび)に金屑泉を飲めば
少なくとも当(まさ)に千余歳ならん
翠鳳(すいほう)  文蛟(ぶんこう)を翔(はし)らせ
羽節(うせつ)もて玉帝に朝(ちょう)せん
解説 屑泉は欒家瀬の近くにあった泉で、「金屑」は金の細片、仙薬のひとつとされていました。薬効のある湧き水として、この名をつけたもののようです。王維の詩は泉の水を飲んで長生きをし、仙人になって天帝にお目通りしようと、金屑泉の水の良質なことをほめています。
15

白石灘


(はくせきたん)

清浅白石灘、
緑蒲向堪把。
家住水東西、
浣紗明月下。

清浅(せいせん)なり  白石の灘
緑蒲(りょくほ)は把(と)るに堪うるに向かえり
家は住(じゅう)す  水の東西
紗(さ)を浣(あら)う 明月の下(もと)
解説 「白石灘」は白い石のある浅瀬で、南?と竹里館のあいだにありました。そこには蒲(がま)も生えていたようです。王維の詩の転結句は楽府(がふ)的な口調になっており、川に紗をさらしにきている村娘が王維の問いに答える形式になっています。
16

北 陀


(ほくだ)

北陀湖水北、
雑樹映朱欄。
逶斜南川水、
明滅青林端。

北陀は湖水の北
雑樹(ざつじゅ) 朱欄(しゅらん)に映(えい)ぜり
逶斜(いしゃ)たり 南川(なんせん)の水
明滅す  青林(せいりん)の端(たん)
解説 北?は欹湖の北岸にある建物であることは、さきに触れました。だから?川荘を北の入口のほうから描いていくとすれば、南?よりは先に出てこなければならないのですが、ここに出てくるのは裴迪の詩が南山と関係があるからのようです。王維の詩は北?そのものを描いて王維らしいこまやかな観察が目立ちます。
17

竹里館


 (ちくりかん)

独坐幽篁裏、
弾琴復長嘯。
深林人不知、
明月来相照。

独り坐す 幽篁(ゆうこう)の裏(うち)
琴(きん)を弾じ  復た長嘯(ちょうしょう)す
深林(しんりん)  人知らず
明月来(きた)って相い照らす
解説 竹里館は竹林のなかに建っている建物で、王維の詩は『?川集』のなかでも名作のひとつに数えられています。「幽篁」は楚辞のなかにある言葉で、幽は人界ではない幽界の意味を含んでいます。「人知らず」は深い林の中のことであるので人は知らないであろうが、名月が近くまでやってきて私を照らしてくれると、名月は擬人化され、王維と交感する心境が詠われています。
18

辛夷塢


(しんいお)

木末芙蓉花、
山中発紅萼。
澗戸寂無人、
紛紛開且落。

木末(こずえ)の芙蓉花(ふようか)
山中(さんちゅう)  紅萼(こうがく)を発す
澗戸(かんこ)  寂(せき)として人無し
紛紛(ふんぷん)として開き且つ落つ
解説 辛夷塢は辛夷の植えてある土手のことです。「辛夷」は日本では「こぶし」と読んでいますが、中国では白木蓮(はくもくれん)を指すようです。「芙蓉」は蓮の花のことですから、王維の詩は木蓮の花を梢に咲く蓮の花のようだと詠っているわけです。その花は白ではなく紅であったらしく、ひと気のない山中で花だけが咲き乱れ、散っていくようすを印象的に詠っています。
19

漆 園 


 (しつえん)

古人非傲吏、
自闕経世務。
惟寄一微官、
婆娑数株樹。

古人(こじん)  傲吏(ごうり)に非(あら)ず
自ら経世(けいせい)の務めを闕(か)けり
惟(た)だ一微官(いちびかん)に寄りて
婆娑(ばさ)たり  数株(すうしゅ)の樹(じゅ)
解説 漆園はうるしの木の植えてある畑で、?川荘の一番奥にあったようです。漆園といえば、当然荘子が出てくるわけです。荘子は粱の蒙(荘子の生地)で漆園の管理をする小役人をしていました。王維は荘子のようにささやかな地位に身を置いて、「婆娑」はしどけないさまのことをいうのですが、つまり衣冠に身を飾らずに自然な姿で生きていると詠っています。
20

椒 園

 (しょうえん)

桂尊迎帝子、
杜若贈佳人。
椒漿奠瑶席、
欲下雲中君。

桂尊(けいそん)もて帝子(ていし)を迎え
杜若(とじゃく)を佳人(かじん)に贈る
椒漿(しょうしょう)を瑶席(ようせき)に奠(てん)し
雲中君(うんちゅうくん)を下さんと欲(ほっ)す
解説 椒園は山椒を植えてある畑で、漆園の近くにあったようです。王維の詩は楚辞の世界を濃厚に踏まえていて、すべての語に典拠の説明が必要ですが、ここでは省略いたします。王維は『罔川集』最後のこの詩で、罔川荘経営の目的が楚辞のような清浄な世界の実現にあることを述べているように思います。



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