謝霊運 385〜433南朝の宋420〜479の詩人。永明体。陽夏(河南省)の人。永嘉太守・侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻(せいち)な表現によって山水詩にうたった。

六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は?水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃破した東晋の名将である。祖父の爵位である康楽公を継いだため、後世では謝康楽とも呼ばれる。聡明で様々な才能に恵まれたが性格は傲慢で、大貴族出身だったことも災いし、後に刑死した。謝霊運の生まれ育ちを感じさせる詩が次の詩である。
 會吟行 
 廬陵王墓下作
 従遊京口北固應詔
 述祖徳詩 二首(1)序
 述祖徳詩 二首(2)其一
 述祖徳詩 二首(3)其二


406年、20歳の時に起家した。420年、東晋に代わって宋が建てられると、爵位を公から侯に降格された。少帝の時代に政争に巻き込まれ、永嘉(現浙江省温州市)の太守に左遷させられる。左遷の旅の途中の作品は、山水詩人として後世まで親しまれた作品が多い。
 永初三年七月十六日之郡初発都  38歳
 過始寧墅 
 富春渚
 初往新安桐盧口
 七里瀬
晩出西射堂
白石巌下經行田(白石巌下 行田を經ふ)永嘉の白石山。

種桑
・登水嘉惚マ山詩
・游嶺門山 (嶺門山に遊ぶ)
・郡の東山にて冥海を望む
・瞿渓山を過ぎ、僧に飯せしむ38歳
・過白岸亭
・登池上樓
・遊南亭

・游赤石進帆海詩謝霊運
・登江中孤嶼
・上戌の石?山に登る
・石門は永嘉に有り
・登石門最高頂
・石門巌上宿
・石門新營所住四面高山廻渓石瀬茂林修竹
・齊中讀書
・夜宿石門詩
・初去郡


在職1年で辞職、郷里の会稽に帰って幽峻の山を跋渉し、悠々自適で豪勢な生活を送った。この時に他の隠士とも交流し、多くの優れた詩作を残した。


・ 田南樹園激流植援    39歳
・南樓の中にて遅つ所の客を望む
・於南山往北山經湖中瞻? 39歳
・石壁に招提精舎を立つ 40歳
・石壁精舎還湖中作   40歳
・禄を辭する賦



424年、文帝が即位すると朝廷に呼び戻されて、秘書監に任ぜられ、『晋書』の編纂などに従事した。その後、侍中に遷った。しかし、文帝が文学の士としてしか待遇しないことに不満を持ち、病気と称して職を辞し、再び郷里に帰った。


・ 東の道路に入るの詩44歳
・(1)従弟の謝實^に酬ゆ 五首
・(2)従弟の謝實^に酬ゆ 五首
・(3)従弟の謝實^に酬ゆ 五首
・(4)従弟の謝實^に酬ゆ 五首
・(5)従弟の謝實^に酬ゆ 五首
・従斤竹澗超嶺渓行
・石室山の詩
・初めて石首城を発す   44歳
・道路にて山中を憶    45歳
・入彭?湖口     45歳


再度の帰郷後も山水の中に豪遊し、太守と衝突して騒乱の罪を問われた。特赦により臨川内史に任ぜられるが、その傲慢な所作を改めなかったことから広州に流刑された。その後、武器や兵を募って流刑の道中で脱走を計画したという容疑をかけられ、市において公開処刑の上、死体を晒された。


・入華子岡是麻源第三谷 48歳
・歳暮            48歳




述祖徳詩 二首
序曰、太元中、王父龕定淮南。負荷世業、尊主隆人。逮賢相徂謝、君子道消、拂衣蕃岳、考ト東山、事同樂生之時、志期范?之擧。

述祖徳詩 二首 其一
達人貴自我、高情蜀天雲。兼抱済物性、而不纓垢氛。
段生藩魏國、展季救魯人。弦高犒晋師、仲連却秦軍。
臨組乍不緤、對珪寧肯分。
#2
恵物辭所賞、勵志故絶人。??歴千載、遙遙播清塵。
清塵竟誰嗣、明哲垂經綸。委講輟道論、改服康世屯。
屯難既云康、尊主隆斯民。

述祖徳詩 二首 其二 
中原昔喪亂,喪亂豈解已。崩騰永嘉末,逼迫太元始。
河外無反正,江介有蹙?。萬邦咸震懾,流ョ君子。
拯溺由道情,龕暴資神理。」秦趙欣來蘇,燕魏遲文軌。
賢相謝世運,遠圖因事止。高揖七州外,拂衣五湖裏。
隨山疏濬潭,傍巖?枌梓。遺情捨塵物,貞觀丘壑美。」

述祖徳詩 二首


謝霊運,述祖徳詩二首 序, 其一, 其二, 謝霊運の祖先

謝霊運<7>  述祖徳詩 二首(1)序 詩集 364

(祖の徳を述べる詩 二首 序文 )

述祖徳詩 二首(1)序
謝霊運の先祖は『南史、謝霊運傳』「謝霊運は安西将軍奕の曾孫にして、方明の従子なり」と記されいる。「奕の曾孫」つまりひまごに当たり、「方明の従子」とは彼の甥に当たることになる。この奕については『晋書』の四十九に略伝があり、当時、政治家として活躍していた人で、経済的にも、知識的にもすぐれた要素をもっていた。当時の社会の最も重要な血縁、門閥について謝霊運は最も恵まれていた。そして、誇り高い人であった。


沈約は『宋書』の本伝で、「祖の玄は晋の車騎将軍」と、その祖父より筆を起こしている。「車騎将軍」とは、各地に反乱があったとき、その征伐を司る将軍で、漢の文帝がこの役を定めて以後あったものである。この玄の伝記については『晋書』の本伝に詳しい。特に「少くして薪悟、従兄の期と供に叔父安の器重する所と為る」と記されているのをみると、非常に頭脳明噺であったらしい。

謝霊運はよほど、この祖父、玄について自慢であったらしく、「山居賦」の自注でも、また、「祖徳を述ぶる詩」でも、その徳をたたえてはばからない。

沈約(しんやく)441年 - 513年 南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。



述祖徳詩 二首
序曰、太元中、王父龕定淮南。負荷世業、尊主隆人。逮賢相徂謝、君子道消、拂衣蕃岳、考ト東山、事同樂生之時、志期范?之擧。

述祖徳詩 二首 其一
達人貴自我、高情蜀天雲。兼抱済物性、而不纓垢氛。
段生藩魏國、展季救魯人。弦高犒晋師、仲連却秦軍。
臨組乍不緤、對珪寧肯分。
#2
恵物辭所賞、勵志故絶人。??歴千載、遙遙播清塵。
清塵竟誰嗣、明哲垂經綸。委講輟道論、改服康世屯。
屯難既云康、尊主隆斯民。

述祖徳詩 二首 其二 
中原昔喪亂,喪亂豈解已。崩騰永嘉末,逼迫太元始。
河外無反正,江介有蹙?。萬邦咸震懾,流ョ君子。
拯溺由道情,龕暴資神理。」秦趙欣來蘇,燕魏遲文軌。
賢相謝世運,遠圖因事止。高揖七州外,拂衣五湖裏。
隨山疏濬潭,傍巖?枌梓。遺情捨塵物,貞觀丘壑美。」

(序)
序に曰く、大元中(376−396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范?【はんれい】の擧に期す。

(其の一)
達人は自我を貴【たっと】び、高情【こうじょう】天雲に屬す。
兼ねて物を救うの性を抱き、而かも垢氛【こうふん】に纓【かか】らず。
段生【だんせい】は魏國に蕃【まがき】となり、展季【てんき】は魯人を救へり。
弦高【げんこう】は晉の師を犒【ねぎら】ひ、仲連【ちゅうれん】は秦の軍を却【しりぞ】く。
組に臨んで乍【たちま】ち緤【つな】がれず、珪【けい】に對して寧【なん】そ肯【あえ】て分【わか】たれん。
#2
物を恵【めぐ】んで賞する所を辭し、志【こころざし】を勵【つと】めて故【ことさら】に人に絶つ。
??【ちょうちょう】として千載を歴【へ】、遙遙【ようよう】として清塵【せいじん】を播【し】く。
清塵【せいじん】竟に誰か嗣【つ】がん、明哲【めいてつ】経綸【けいりん】を垂【た】る。
講を委【い】して道論【どうろん】を輟【や】め、服を改めて世屯【せいちゅん】を康【やす】んず。
屯難【ちゅんなん】既に云【こと】に康【やす】し。主を尊【たっと】んで斯の民を隆【さかん】にす。

(其の二)
中原 昔 喪亂【そうらん】,喪亂豈解【と】け已【や】まんや。
永嘉の末に崩騰【ほうとう】し,太元の始に逼迫【ひょくはく】す。
河外【かがい】に反正無く,江介【こうかい】に蹙?【しゅくひ】有り。
萬邦【ばんぽう】咸【みな】震【ふる】い懾【おそ】れ,流【おうりゅう】君子にョ【よ】る。
溺を拯【すく】うて道情に由り,暴に龕【か】ちて神理に資【と】る。」
秦趙【しんちょう】は来らば蘇【よみがえ】らんと欣【よろこ】び、燕魏【えんぎ】は文軌【ぶんき】を遲【ま】つ。
賢相【けんそう】世運【せいうん】謝【しゃ】し,遠圖【えんと】事に因【よ】りて止【や】む。
七州の外【ほか】に高揖【こういう】し,衣を五湖の裏【うち】に拂う。
山に隨って濬潭【しゅんたん】を疏【うが】ち,巖【いわお】に傍【そ】いて枌梓【ふんし】を?【う】う。
情を遺【わす】れて塵物【じんぶつ】を捨て,貞【ただ】しく丘壑【きゅうがく】の美を觀る。」



(訳注)
序曰、太元中、王父龕定淮南。
序に曰く、大元中(376−396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、
序にいう。晋の太元(376−396)という年号の間に、祖父謝玄は淮水の南、?水の戦いに前秦の苻堅に勝って乱を定めた。
○述祖徳 祖父謝玄の徳か述べる詩。○太元 東晋の武帝の年号(376−396)。 ○王父 租父。父の亡父。王は尊称。 ○ 勝つの意味。○淮南 淮水がの南。?水の戦(383)。

負荷世業、尊主隆人。
世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。
世々伝えられた仕事として治世の任を引きうけて、君主を尊び人民をさかえさせた。
負荷 任を引きうける。○隆人 人民を栄えさせる。 

逮賢相徂謝、君子道消、
賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。
しかし徳のすぐれた宰相が死に去り、君主の正しい道が衰えるようになって、
道消 『易経、天地否』「小人道長、君子道消」(小人は道長じ、君子は道消するなり)」とあり、君子の道が消えることをいう。これに基づいている。


拂衣蕃岳、考ト東山
衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。
諸侯としての任地、会楷の山に衣を振って塵を払い、去って志を潔くして隠居し、亀の甲を焼いてうらないを考え住まいを東山に定めて、

払衣 衣の俗塵を払い故郷に帰り隠居すること。 ○蕃岳 藩岳、潘岳(はんがく) 247年 - 300年西晋時代の文人。字は安仁。中牟(河南省)の人。陸機と並んで西晋時代を代表する文人。また友人の夏侯湛と「連璧」と称されるほど、類稀な美貌の持ち主としても知られている。 『世説新語』によると、潘岳が弾き弓を持って洛陽の道を歩くと、彼に出会った女性はみな手を取り合って彼を取り囲み、彼が車に乗って出かけると、女性達が果物を投げ入れ、帰る頃には車いっぱいになっていたという。潘岳の作る文章は修辞を凝らした繊細かつ美しいもので、特に死を悼む哀傷の詩文を得意とした。 愛妻の死を嘆く名作「悼亡」詩は以降の詩人に大きな影響を与えた。"諸侯。藩屏。ここでは次句の東山に対して任地の山岳、会稽山の意味も兼ねる。○考ト 亀の甲を焼いて割れ目で古凶を考えて、居を定める。卜居のこと。○東山 始寧の東山。会稽郡上虞県にある。謝安が隠居していたところ。


李白は謝安を詠う詩が多くある。
李白『送?良攜二妓赴會稽戲有此贈』
「攜妓東山去。 春光半道催。
遙看若桃李。 雙入鏡中開。」
( 姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り。妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。遙(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。)
李白『憶東山二首其二』
「我今攜謝妓。 長嘯?人群。
欲報東山客。 開關掃白云。」
(我 今 謝妓を攜え。 長嘯して 人群を?つ。 東山の客に報わんと欲っす。關を開いて 白云を掃く。) 

事同樂生之時、志期范?之擧。
事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范?【はんれい】の擧に期す。
昔楽毅が燕の昭王のために斉の七十余城か攻め落としたと同じ事栗をしながら、志は越王句践のために呉を滅した後は、五湖に舟を浮かべて行くえをくらまし、優遊自適の生活をした范蠡のような行ないをしたいと願ったのである。
楽生 楽毅。楽 毅(がく き、生没年不明)は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。楽毅の先祖は魏の文侯に仕えた楽羊であり、楽羊は文侯の命令により中山国(燕と斉と趙が接する所にあった小国。現在の河北省保定市の周辺。)を滅ぼし、その功により中山の首都霊寿に封じられた。子孫はそのまま霊寿に住み着き、その後復興された中山国に仕えたようである。その縁から楽毅も中山国に仕えていたとも言われているが、彼の前歴は今でも明らかになっていない。燕の昭工の卿、紀元前284年に趙・楚・韓・魏・燕五国の兵を率いて斉を伐ち、斉の七十余城を下した。 ○范?【はんれい】越玉句践を助げて呉を滅した(前473年)。後范?は五湖(太湖)に浮かんで越を去り野に隠れ、名を鴟夷子皮と変えて産を成し、自ら陶の朱公と号した。


其の一
達人貴自我、高情屬天雲。
物の道理に通じている人は物を軽んじ自分を大切にし、その高い心持は天空の雲に届き所属しているのだ。


兼抱済物性、而不纓垢氛。
それにあわせて万物を救済する心がありながら、世俗のけがれた空気にまとわれることがない。
垢氛【こうふん】 俗の汚れた空気、俗気。 

段生蕃魏國、展季救魯人。
段干木は魏の国を守る大垣根の役となり、柳下恵は魯の人々を救った。
段生 段干木。戦国魏の賢者。生没年不明。段干は魏の地名で,それを姓とした。田子方,呉起らとともに,孔門十哲の一人子夏に師事したが,同門の諸士と異なり仕官を好まず,仕官を勧めに訪れた魏の文侯(在位,前445‐前396)を避けて牆(かきね)を乗り越えて逃れたという逸話がある。文侯は終始その賢者なる徳をたたえ,彼の住む村の門前を通り過ぎる際には必ず車上に身を伏せて敬意を表したという。一説に,彼は仲買を生業としていた,ともある。○ まがき。藩に同じ。魏国を守る大垣根。・展季 柳下恵。柳下恵の用語解説 - 中国、周代の魯(ろ)の賢者。本名、展禽。字(あざな)は季。柳下に住み、恵と諡(おくりな)されたことによる名。魯の大夫・裁判官となり、直道を守って君に仕えたことで知られる。生没年未詳。

弦高犒晋師、仲連却秦軍。
弦高は晉国へ行くと称する秦の軍に出会い、牛12頭差出し、慰労するといってこれを留めて、泰の来襲を鄭に知らせた。秦が趙を囲んだ時に、魏の使いが秦の昭王を尊んで帝と称するように趙に説いたが、魯仲連は責めてその使いを帰らせ、これを聞いた秦の車を十五里も退かせた。


弦高 春秋の鄭の商人。道で来襲する秦兵に遭遇、詐りねぎらって、急を鄭に知らせて備えさせた(左伝逍公三十三年)。 春秋鄭國商人弦高。 秦師將侵鄭, 適高入周經商, 遇秦師於滑。 高以牛十二, 謂奉鄭君之命犒師。 秦師以為鄭國有備, 滅滑而還。 事見《左傳?僖公三十三年。○仲連 魯仲連。戦国時代の斉の雄弁家。高節を守って誰にも仕えず、諸国を遊歴した。生没年未詳。魯連。秦が趙を囲んだ時、魏の使いが秦の昭王を尊んで帝と称するように趙に説いた。仲連時に趙にいて、使いを責めて帰し、秦軍をして恐れて十五里退かせた。田単が斉の王に申し上げて爵を賜わろうとしたが、仲連は海辺の地に逃がれた。戦国時代の斉の国の人で、義侠の士として有名である。伝記は「史記」の列伝に見える。つね日ごろ、人とはちがった大志を抱き、仕官せず職にもつかなかった。たまたま趙の国に遊んでいた時、紀元前二四七年、秦の軍隊が趙の邯鄲(いまの河北省にある)を包囲した。魯仲連は、秦に降伏することに断乎反対して、題の平原君を助けた。同時に、魏の国の王子信陵君もまた、兵を率いて秦を攻撃したので、秦は退却し、趙は救われた。郡部の包囲が解かれたのち、平原君は魯仲連に領地を与えようとした。魯仲連は辞退した。平原君はそこで千金をおくろうとした。魯仲連は笑って言った。「天下に貴ばれる士たる者は、人のために患を排し、難をとき、紛乱を解して、しかも何も受取らないものです。もしも報酬を受取るなら、それは商人です。」何も受け取らないで立去り、生涯ふたたび現われなかった。李白『古風五十九首 其十』

臨組乍不緤、對珪寧肯分。
彼は印綬の組み紐の飾りを目の前に示された時でも、その官職か受けて、それで身をつながれて自由を失うようなことはなく、封爵の沙汰があり、そのしるしの珪角のある玉に面と向かいあっても、領地を分け与えられることをどうして承諾することがあったろうか。
臨組 官職の印綬のくみひもを目前に見る。○乍不練 そんな時でもその組紐につながれない。官職に束縛されない。○対珪 珪(角ある玉)印に面しても。珪は爵封の印章。○寧肯分 どうして封土を分ち賜うのを受けようか。

これら節義の士は、物に恩恵を施しても、それを賞められるのを辞退し、志をつとめはげんで、ことさらに衆人との関係を絶ったのである。
その名は超然として遠く千年を歴【へ】て伝えられ、その人の清らかな行迹【ぎょうせき】の影響、感化は、はるかに広がり及んでいる。
この清き行為のあとをいったい誰が受け継いでいるのであろうか。それは、わが祖父謝玄は明らかな智慧があって国を洽める才能を世に示しておいてくれた
そして学問の講究を捨て、道理の議論をやめ、服を改めて武装して世の難儀を平穏なものにして行った。
こうして世の危難はここに安寧なものになった。そこで祖父は君主を尊びこの国の人民を栄えさせたのであった。

訳注)#2
恵物辭所賞、勵志故絶人。
これら節義の士は、物に恩恵を施しても、それを賞められるのを辞退し、志をつとめはげんで、ことさらに衆人との関係を絶ったのである。
恵物 物に恩恵をあたえる○辭 辞退○所賞、そのことを賞せられるところ。○勵志 志をつとめはげむ。○ 知人、衆人○絶人 自分のために人との関係を絶つ。

??歴千載、遙遙播清塵。
その名は超然として遠く千年を歴【へ】て伝えられ、その人の清らかな行迹【ぎょうせき】の影響、感化は、はるかに広がり及んでいる。
?? 高いさま。超然。○清座 清らかな行為。墜は(車の土埃)。影響感化。・明哲 明らかにさとい人。

清塵竟誰嗣、明哲垂經綸。
この清き行為のあとをいったい誰が受け継いでいるのであろうか。それは、わが祖父謝玄は明らかな智慧があって国を洽める才能を世に示しておいてくれた。
垂経綸 国を治める才能を世に示す。垂は示す。

委講綴道論、改服康世屯。
そして学問の講究を捨て、道理の議論をやめ、服を改めて武装して世の難儀を平穏なものにして行った。
委講 書物勉学のみを全てとする講義研究をすてる。○綴道論 道理についてのみの教条的な議論をやめる。実践の伴わない、掛け離れた「道」の実の議論を辞める。○改服 九品位、身分制度の確立、納税の公平性、府兵制の導入、などの様々な改革。○世屯 世運の滞り、国がうまく行かないこと。国難。

屯難既云康、尊主隆斯民。
こうして世の危難はここに安寧なものになった。そこで祖父は君主を尊びこの国の人民を栄えさせたのであった。 



このように具体的にその徳を歌う。この詩が謝霊運の何歳の作かは明らかでない。昭明太子は『文選』の巻十九の「述徳」にも名作として引用し、謝霊運の子孫と称する唐の詩僧皎然もその著『詩式』にこれを名吟の一つとして高く評価している。身分制度の身で社会が構成されていく時代にあり、こうした先祖の表現法の重要性は高まったはずで、手本とされるものになったのである。


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